畑佐一味先生

第33回APJE定例研修会 報告

日時:2022年4月23日(土)16時30分~20時
会場:オンライン(Zoom使用)
講師:畑佐一味先生(米国パデュー大学 言語文化学科教授)
テーマ:「日本語教員のための小噺ワークショップ2022」
主催:スペイン日本語教師会
参加者数: 27名
第33回APJE定例研修会・畑佐一味先生と参加者

◆定例会案内時の事前課題から当日のワークショップまでの流れ

<事前課題ステップ1>

定例会案内メールの添付資料や関連リンクでプロジェクトを知る

<事前課題ステップ2>

指定された小咄から1つ選び,自らも小咄を行って,それをビデオに撮り,ワーク用の掲示板(Padlet)に投稿して,参加者間で共有する(「いいね!」や「コメント」投稿も)。

◆第33回研修会(小咄をテーマにオンラインでのワークショップ)の流れ

 開始後,まず,講師の畑佐一味先生から小咄プロジェクトの紹介や学習者体験をしてみる意義について説明があり,ついで,事前課題の講評が行われました。そして,講評後は,3~4人のグループに分かれました。

グループでは,事前課題が未投稿の方のパフォーマンス練習をバックアップすることと,講評や課題についての意見交換が指示されました。小咄を練習しあったグループもあったようでしたが,私たちのグループは,どなたかの練習を見るのではなく,今回のプロジェクトやワークショップ,講評時に理解した内容や,それぞれの認識をシェアし合いました。

 グループでの活動を終えてからは,全体で,グループで出た意見や感想の報告や,質疑応答が行われました。また,その中で,各グループ内で練習した方々のパフォーマンスを全員で拝見し,それを直に講評される様子を見る時間もありました。

全体での講評を目の当たりにしてから,咀嚼し,そして,もう一度,講評を復習するという流れだったと思います。

◆一連の流れの中で思ったこと

<定例会のお知らせを見て>

 定例会の案内とそのテーマを拝見したときは,「小咄!?」「って,落語?」「学習者にできるのかしら?」「そもそも学習者が(クラスで日本語学習として小咄を行うことを)受け入るのだろうか?」と驚きました。

 <事前課題ステップ1を通して>

 それで,定例会案内にあった,講師の畑佐一味先生からの<事前課題ステップ1>として案内に添付されていた指導用プリントや講師の先生の報告書を拝見しながら,プロジェクトのホームページを見て,小咄プロジェクトについて理解を深めるように努めました。

資料からは,まず何と言っても,日本語を用いて何かが達成できることに対する学習者の喜びがあふれていることが窺えました。その喜びを新鮮な気持ちで認められたとき,小咄プロジェクトというものをさらにもっと知りたくなりました。

 小咄プロジェクトでの活動は,もちろん,発音やイントネーションに注意したり,息の継ぎ方などに意識を向けるようになったりするという点で,確かに学習という面が強いと思います。しかし,HPを見ていくと,日本語を学ぶというよりは,どちらかというと,自身を見つめる研究的姿勢を養うという面を強く感じました。よりリアルな日本語の「らしさ」とか,日本の文化(学習者にとっては,他文化)への理解深化を通して自分を見直すということです。

これは,教師としては,教室での指導の範疇を超えていく話で,指導可否による困惑や工夫の悩みにつながりますが,その一方で,エキサイティングなことでもあります。そのため,小咄プロジェクトの中核にあるであろう教師側のプロジェクトという場の提供に係る意図をつかみたいという気持ちが起こり,そして,このプロジェクトが今後どこに向かうのかについて,たいへん気になってきました。なぜなら,この問いの向こうには,そもそも日本語教育とは何をすることなのか。どのような意味があるのかという自問につながり得るものがあると思ったからです。

 もちろん,小咄プロジェクトには日本事情教育という面もあると思いますが,より高度に共通する人間力のようなものを磨くプロジェクトになっているのではないかと思いました。プロジェクトでは,小咄を人前で行うという事態,まるごと全体が,自分への挑戦とか,何かを達成するということになっており,そのために使う言語がたまたま日本語だったというだけのもののようにも思えたからです。小咄は,演劇で表現力を磨くことに近いけれども,自分だけで自分をコントロールして練習できるところが演劇とは少し違いますし,舞台装置のないところで表現するという点で,より自己表現に直接的に結びついていて,その結果,表現・創造されるものも演劇とは異なってくると思いました。

 そう考えてくると,なるほど!小咄をすること,それでたまたま日本語「らしさ」を学ぶということ,そういう学習も,確かに,日本語教育にあってもいいものだと興味深く感じました。

 <事前課題ステップ2を通して>

 <事前課題ステップ2>の指示にしたがい,指定の小咄の中から好みの内容で,実力の範囲でできそうなものを1つ選び,自らも行ってビデオに撮り,参加者間共有用の掲示板(Padlet)に投稿しました。

 掲示板にあった見本の動画を見ながら,自分のイメージする<小咄>になるように,声の調子や息継ぎを工夫したつもりですが,1回目の録画を見直すと,何か鬱陶しく思うところが多々ありました。自分の声の出し方や活舌が悪くて言っていることが聞こえにくかったり,目線とか顔の向きなどに,何か引っかかりを感じて目障りだったり,また,小恥ずかしさが漏れ出ていることも,内容に集中する邪魔になっていると思いました。

共有用の掲示板では,動画に一言書いてアップできるのですが,先に投稿されていた方の多くが,自分なりの工夫や努力のポイントを書いていらしたので,その工夫記述と動画を拝見しながら,さらに(自我とエゴを捨てて)工夫を繰り返しました。発音,活舌,息継ぎ,抑揚,間合いなど,リアルさのポイントをたいへん意識して「咄せた!」と思って動画を見ると,今度は,目線や顔や体の向き等に違和感があり,やはりなんだかまどろっこしい話しぶりになっていて,そんなこんなで,結局,投稿するまでに,5回以上,自分の録画を撮りなおしました。

見ていただく方に,途中で嫌にならずに,小咄で表現している世界に入り込んでもらって,さらにオチまで全部聞いて笑ってもらうため,つまり,小咄を楽しく聞いてもらうには,単に,話を覚えて言うだけではだめでした。聞き手に,何にも邪魔されずに内容に集中してもらうように,聞こえ方など技術的な部分を徹底して向上させると同時に,そのうえに,やり取りを表す息のつなぎ,切れ目を顔の向きや体の動かし方,手ぶり等で見せることが必要で,そうなってくると,音や息遣いに現れるその背景設定に対する演者の「読み込み」がリアルさには不可欠なのだなと実感できました。

プロジェクトのホームページに見られた体験者の様子を念頭に,自分でもビデオに撮って投稿までやってみるという<事前課題ステップ2>をやってみると,自分の小咄では,場面の設定が見えてこないという点が気になりました。そして,素人ながら,これが話芸の,芸と呼ばれる所以なのだなと思ったりして,話芸自体に対しての意識を刷新できたような気がします。

また,口頭表現というものが日々の会話にいかに重要かにも思い至りました。そして,学習者に,このような表現力としての発音や息継ぎ,抑揚,間合いを指導していないことも反省しました。小咄プロジェクトに参加することは,日ごろの授業では後回しになることが多い口頭での表現というものを,学習者にも考えてもらうのに,良いきっかけになり得るものだと思いました。また,人と人のコミュニケーションには,会話の背景である場面設定や人間関係,話者どうしのキャラクターなどの情報も把握する必要があることにも気づいてもらいやすいなあと思いました。

さらに,小咄と教科書の「話」の質的な違いを考えさせられました。小咄には背景について明確に言葉にされていない部分も多く,一読するだけでは認識できないところも多いのですが,その分,その背景や広がりを自分でイメージしていくところが面白いところでもあります。小咄は,教科書の,いわゆる,模擬会話とは異なり,説明的ではないところが文学的で,その読み込みが,また現実世界でのやり取りを想定した会話シミュレーションにもなり得ると考えられ,学習者の場面の把握力を向上させ得ることが期待できるように思いました。

 小咄も初体験ですが,そもそも自分をビデオ取りすること,そして撮ったビデオをYouTubeにアップすること自体が初めてのことでしたから,自分にできるのだろうかとビクビクしながら行いましたけれど,APJEのテクニカルサポート講座やその録画を拝見しながら,YouTubeデビューもなんとかできました。本当に,いろいろな意味で達成感がありました。

事前課題を行ってみて,日本語らしさを口頭表現上,内容上,考えながら,高い達成感が得られる活動を行えるところが小咄プロジェクトの口頭での「らしい」表現の「意味のある」練習なのだと納得できました。言葉での説明が多く盛り込まれている教科書の「模擬会話」よりも,小咄を1つ発表する方が,却ってリアルなイメージスキーマの形成につながる学習に至るのではないかと考えられました。

<ワークショップにて>

 当日,先生から,みなさんが投稿した小咄ビデオに対する講評を受ける中でも,さらに,いくつもの学びがありましたが,技術的な面で特に記憶に残っている「間合い」と「目線」についての感想を最後にあげておきます。

まず,目線をカメラに据えないようにという指摘がありました。小咄の演者はカメラを見ないで目線をカメラから外した外にいるはずの人にのみ向けると説明を受け,状況への参加や視点の止め方が,当事者であると同時に傍観者であるという微妙な位置関係を聞き手側に示す効果が芸として小咄にはあるのかなと思いました。

そして,「間合い」ですが,これは複数の言語に共通する概念で,日本語の間合いという特別なものがあるわけではなく,どの言語話者にも理解できるものだという指摘に,目からうろこが落ちました。私はそれまで,日本語の間合いは,他の言語話者には理解できないのだろうと思い込んでいたのですが,そうでもないのだと知り,まだどこかで日本語に特別感をもっていたのだと反省すると同時に,学習者に間合いが理解できるように指導することを放棄していたと猛省しました。流暢さというのは,発音ではなく,より自然な日本語の間合いの取り方で出せるはずで,それも指導できるものなのだから,サボっちゃいかん!と注意を受けたように感じたのです。自分の言語観の再認識は教師としての成長に関する大きな学びでした。

<終了後>

ワークショップの後,2週間以内に,やりなおし動画の提出が指示されました。私は,結局,提出できませんでしたけれども,そのかわり,少しずつ,ワークショップで行ったことを反芻しました。その中で,自分なりに,小咄という話芸を楽しむ気概が,特別なものではなく,外国語として日本語を学ぶ学習者にも十分実行可能な話芸であり,楽しみでもあると思うようになりました。

今回,定例会に参加して,プロジェクトという形で小咄に取り組むことの意味を考えたわけですが,結局のところ,学習者に学習の機会が与えられるのに,与えていないかもしれないことを,もっと意識してみた方がいいのではないかということを再確認したと言えます。日々のルーティーンの中で,単に,私が教師としての力不足と,狭量さゆえに,目をつぶっていることがあるのではないかということを問いながら,学習者の学習への取り組みに自己実現や達成感という感覚を与えられるように努めることを忘れてはいけないなと思いました。今回の研修では,教師としても大きな学びが得られる機会になったとありがたく思っています。

中尾桂子(東京)